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ノーラン・チャートの見方
左上:リベラル(Liberal:左翼)
「個人の自由」を尊重し、「経済の自由」は軽視する立場。
右上:リバータリアン(libertarian)
「個人の自由」も「経済の自由」も尊重する立場。
右下:コンサバティブ(Conservative:右翼)
「経済の自由」を尊重し、「個人の自由」は軽視する立場。
左下:独裁・権威主義・全体主義(Totalitarianism)
「個人の自由」も「経済の自由」も軽視する立場。
・・・正直これだけだと意味がわからないと思うので、簡単に解説いたします。
ここでは初めての方でもなるべく分かりやすいように説明を相当に端折りますので御了承ください。
この意味を理解にするには、ノーラン・チャートができあがった世界の歴史的経緯と並行して、とても基本的な7つの話を知る必要があります。
その7つとは、
- 1、「中世」か、「近代」かという話
- 2、「古典」か、「現代」かという話
- 3、「神様」につくか、「人間」につくかという話
- 4、「個人の自由」と「経済の自由」がなぜ対立するのか、という話
- 5、「増税」か、「減税」(あるいは無税)かという話
- 6、「公務員」か、「民間会社員(サラリーマン)」かという話
- 7、「市場の規制(統制・介入)」か、「市場の自由」かという話
です。
これらそれぞれ2つは相対(あいたい)する「水と油の関係」という極めて基本的なことを覚えておきましょう。
1、「中世」か、「近代」かという話
「中世」(~1600年代頃)までは、ヨーロッパが世界史の中心で、主にキリスト教のカトリックの僧侶や貴族が国を支配していました。
国から見て「経済の自由」なんてお金儲け自体が表向き悪と軽視され、「個人の自由」なんてものも特に中世末期においては、音楽どころかしゃべることさえも「統制・管理」されて弾圧・殺害され、「自由」なんて存在していませんでした。
ノーラン・チャートでいうと中世は「左下」の独裁の世界です。
それが1520年のキリスト教プロテスタントを創始したルターの「キリスト教者の自由」を始めとした宗教革命から、清教徒革命/ピューリタン革命(1641年から1649年)、名誉革命(1688年から1689年)が起こり、農業革命・産業革命(1760年代から1830年代)、フランス革命(1787年から1799年)へと向かい、世界はお金儲けを肯定した資本主義の貨幣経済の「近代」へと向かいます。
この時点でノーラン・チャートでいうと、
「中世」のような全体主義の独裁に対しては、「近代」以降登場したリバータリアニズムも、コンサバティブ(右翼)も、リベラル(左翼)も、反対しているということです。
2、近代以降の「古典」か、「現代」かという話
この頃、事の発端であるイギリスでは、
「個人や経済の自由なんてトンデモない。今まで通り王や教会という”伝統”を守ろう!」とする保守・右翼のトーリー党(保守党)
vs
「そんなのはもう古い。国は規制や統制をしないでくれ。人間を自由に放っておいてくれ。」と新しく自由なお金儲けで会社経営しようとするリベラル・左翼のウィッグ党・ホイッグ党(自由党)
の2つの勢力の戦いがありました。
このイギリスのリベラル・左翼のウィッグ党・ホイッグ党(自由党)が、のちに大陸を渡り「アメリカ」という「自由の国」を作ります。
そしてアメリカで
「古典リベラル」(Classic Liberal:クラシック・リベラル:古典的自由主義)
と
「現代リベラル」(Modern Liberal:モダン・リベラル:現代的自由主義)
の対立を生みます。
まず「古典リベラル」(古典的自由主義)が、初期のアメリカにおいての「保守」(伝統)となります。
「国の最初の思想」がのちに「伝統」(保守)の立場になるわけですから当たり前ですね。
これが「リバータリアニズム」(Libertarianism)です。
イギリスにおいてのリベラル(進歩主義=左翼・自由主義)が、アメリカにおいての保守(伝統重視=右翼・自由主義)になっていることはよく覚えておきましょう。
そうしないとリベラル(Liberal:左翼)の訳は「自由」という意味なのに、
なんでアメリカの保守(コンサバティブ)が「自由(リベラル)」を主張しているのか、意味不明になるからです。
その古典的自由主義であるリバータリアニズムが、今のアメリカの保守(伝統)・右翼勢力である「共和党」の源流を生みます。
これが「コンサバティブ」(Conservative:右翼)です。
対して、その伝統に反対しているのが「現代リベラル」(モダン・リベラル:現代的自由主義)の「リベラル」(Liberal:左翼)です。
今のアメリカの左翼(進歩主義)勢力である「民主党」です。
※後述しますが、ここからさらに右翼から新保守主義(ネオ・コンサバテイブ)と、左翼から新自由主義(ネオ・リベラル)にも分かれていきます。
簡単に言うと、右翼から出たネオコンは規制の左翼寄りに、左翼から出たネオリベは規制緩和の右翼寄りに、それぞれ先祖返りしただけです。
3、「神様」につくか、「人間」につくかという話
日本では宗教に関して何の頓着もありませんが、欧米では存在論の論理の根幹をなす重要な問題です。
宗教に馴染みのない日本人でも「算数」や「数学」を義務教育の中で習っていると思います。
はっきり言うと、この「数学」が「一神教の宗教」のことです。
ハーバードなどの世界一の名門校に代表されるアイビー・リーグでは「リベラル・アーツ」(自由学問)という教育体系をしています。
これが「世界の普遍的な価値観」です。これ以外の学問体系はニセモノです。
ここでは「数学」は、神様の存在証明のための言語として「神学」と同一視されています。
科学(理科:自然科学・社会科学)は「仮説の更新の塗り重ね」で誰がどこでやっても必ず同じ結果になるとは限らない(不完全帰納法)なのに対し、
数学は「証明」によって誰がどこでやっても「必ず一つの答え」が出ます。(完全帰納法)
ここに神様の存在を感じているのです。
もっと分かりやすくいうと、数学の「点」が存在するという前提のもと、「必ず一つの解になる」という「神」が存在していると考えているのです。
だからニュートンやスピノザなど昔の偉人は「数学者でありながら、神学者であった」という公然とした経歴なのです。
「神様の存在が数学的で証明される」ということは、全人類が神様に証明されているという「愛」という安心感と同時に、常に神様に監視されている恐怖があったのです。
人間は、旧約聖書の頃から、唯一神であるゴッド(ヤハウェ・エホバ・アッラーなど呼び方は宗教で様々)と議論(ディペード)して論破することで、神様の怒りを沈めることで、神様の恩恵が受けられると信じて信仰して来ました。
一神教の神様は、論理的に間違っていれば全人類を皆殺し(ジェノサイド)にする神様なので、モーセなどの論理に優れた指導者が神様と対話して怒りを鎮めてきたのです。
だから論理的に間違い(=数学的に偽)があると全人類を皆殺し(ジェノサイド)されます。
キリスト教の論理の根本にはその終末論の恐怖があります。
それを防ぐためにはディペードの天才である僧侶を立てて、一神教という宗教の信仰によって、神様の怒りを鎮めるしかありません。
こうして中世まで欧州で栄えたのがキリスト教カトリックです。
「神を信じなさい。その代弁者である僧侶や貴族を敬いなさい。」
「お金儲けはダメ、異性交遊はダメ、音楽や歌などの嗜好文化はダメ、しゃべってはダメ、教会への金銭的・物理的な奉仕だけよこせ。」
・・と徹底的にすべての民衆を弾圧・統制しました。
それが中世末期で腐敗しきって、いよいよ民衆が怒り狂って「ふざけるな!金儲けしようと何しようと人間個人の自由だ!」と沸き起こったのが宗教改革であり、資本主義の源流となるルターのようなキリスト教プロテスタンティズムでした。
それでもなぜ「神なんていない!」と言わなかったかというと、数学で存在証明される普遍性(絶対的に変わらない法則)があったので、
神の存在を否定すると、数学の「点」の存在否定でもあり、それは自分(人間)の存在否定にもなるので、主張が自己矛盾してしまうからです。
のちに今では、このプロテスタンティズムの資本主義に反して、左翼の代表格である共産主義が無神論・唯物論で反宗教ですが、こちらは論理ないので行き着く先は人間の「独裁」なのです。
4、「個人の自由」と「経済の自由」がなぜ対立するのか、という話
「個人の自由」と「経済の自由」が反対のように書かれていると日本人の感覚では「?」となります。
「個人が自由ということは経済も自由だし、経済が自由なら個人も自由なんじゃないの?」と思ってしまいます。
リバータリアニズムの立場からすれば、その感覚は極めて正しく、本来はそうあるべきなのです。
しかし実際は、「経済」と「個人」というのは、欧米の感覚では「神様」と「人間」として解釈されています。
資本主義においては「経済」とは「神様への奉仕活動」として解釈されています。
「資本主義」は、有神論(神様がいる)を前提として、経済を重視して、個人(集団・社会)は軽視します。
これは予定説といって「神様が全て決めている」という立場から、「働くことは神が定めし天職であり神への奉仕」だとして、「経済活動の自由」を重んじるわけです。
経済活動=神様への奉仕、という感覚は、日本人には理解し難いですが「予定説」を知れば一発で分かります。
神様の前では、地位や身分関係なく「平等」に勤労する「機会」が与えられていて、一心不乱に働けば最終的に「神の見えざる手」で需要と供給がつり合うように自然に調節され適切な資源配分が達成されるとします。
よって神様が全て決めているので、「経済の自由」を重視して、個人の経済活動以外の「個人の自由」は軽視されます。
神への奉仕のために自由に完全競争(価格受給)することこそ本位で、それを人間(集団・社会)が管理することは嫌います。
なので個人の集合体である国・政府は市場(経済活動)に介入せず、小さな政府(税金を少なく=減税)に節約していこうとする傾向があります。
そのために私有財産を前提として、財産の(生産活動への)投資から利潤を得ようとする資本家の行動が経済活動の基本とします。
これが
右下:コンサバティブ(Conservative:右翼)
「経済の自由」を尊重し、「個人の自由」は軽視する立場。
です。
対して、「経済の自由(神への奉仕)」ばかりで、人間個人のことが軽視されているではないか、
それよりも人間(個人の自由)を重視しなさい、国の公的な機関が、キリスト教的な慈善奉仕の精神に則って、キチンと社会福祉で弱者救済をしなければならないとする
これが
左上:リベラル(Liberal:左翼)
「個人の自由」を尊重し、「経済の自由」は軽視する立場。
です。
ちなみに、このリベラル(左翼)が極端になりすぎると「共産主義」になります。
共産主義では、無神論(=唯物論:神様はいない)を前提として、個人(集団・社会)を重視して、経済(個人の経済活動)は軽視します。
神様が全て決めていて、神への奉仕のために個人が自由に経済活動をする資本主義なんてとんでもない。人こそ自由意志の決定権・主導権があるとします。
リベラルと同じく、「個人の自由」を重視して、「経済の自由」は軽視します。
なので、人が財産の一部または全部を共同所有(私有財産は禁止される,もしくは非常に限定される)することで、その活用から得られる利益を共有することで平等な社会をめざそうとします。
はっきり言って完全に、
左下:独裁・権威主義・全体主義(Totalitarianism)
「個人の自由」も「経済の自由」も軽視する立場
になっています。
コンサバティブ(右翼)もいずれは、個人だけでなく経済も軽視するようになり、同じく独裁体制への末路を辿ります。
これらに対し、
リベラル(左翼)も、コンサバティブ(右翼)も、時代を経て極端に走りすぎてしまっているから重要なところが両立できないのであって、
経済の自由も個人の自由も、両立可能であるとするのが
右上:リバータリアン(libertarian)
「個人の自由」も「経済の自由」も尊重する立場。
です。
なぜ共和党の「コンサバティブ」のではなく、「リバータリアニズム」という名称が生まれたかというと、
現在のアメリカ共和党=コンサバティブが、世界中で規制や、統制や、戦争など個人の財産や生命の自由の侵害する行為ばかりを行い、
到底、古典的な自由主義と呼べるほど自由主義ではなくなってしまったので、それに反対するために「古典的な自由主義に戻れ!リバータリアニズムに戻れ!」と再興隆したのがリバータリアニズムです。
5、「増税」か、「減税」(あるいは無税)かという話
基本的には
ノーラン・チャートの左側(リベラルと独裁)は、増税を支持します。
対して
ノーラン・チャートの右側(リバータリアンとコンサバティブ)は、減税(あるいは無税)を支持します。
「税金」とは、神様への奉仕活動である労働、そこから生まれる自然のままの自由市場の中に、人間(政府)が強制的にメスを入れて、財産を切り取って貰ってもいいか、という問題です。
今までの「中世」の時代に散々この税金のような財産の強制徴収を欧州の僧侶や貴族が行なって、国が衰退して行きました。
現代に至るまで、増税して経済が良くなった国は一切なく、むしろ統計データ的にも経済衰退しています。
「税金」とは、近代資本主義国家においては、「必要悪」どころか経済成長を止める「絶対悪」なのです。
アメリカの保守派(右翼)の本流である税金に反対する団体のことを「ティーパーティー(Tea Party)」と言います。
この名称は、1773年にイギリスが、アメリカに対してお茶に税金をかけようととした茶法(課税)に対して反旗を翻したボストン茶会事件(Boston Tea Party)に由来しています。
同時にティーは「もう税金はたくさんだ(Taxed Enough Already)」の頭字語でもあります。
このような経緯から、アメリカの初期保守思想(本物の保守思想)であるリバータリアニズムは、徹底的に税金を嫌います。
税金はこの世の全ての諸悪の根源です。
6、「公務員」か、「民間会社員(サラリーマン)」かという話
日本ではこの区別さえ、あまり意識されていません。
民間会社員(サラリーマン)が働いて利益を出し、その利益を税金によって強制的に刈り取って生きているのが「公務員」です。
「同じように働いている」という認識の人が大半ですが、事実として「労働生産性」がまったく違います。
たまに「公務員も民間会社員も、頑張って働いてるから同じなんです!」と社会保障も年金制度も無視したトンデモないことを言う人がいますが、
「労働生産性」という単語で一発で論破できます。
民間会社員(サラリーマン)はモノやサービスや価値を売って「生産性ある労働」をして利益を得ます。
公務員は、その利益を税金で刈り取って、その配分のために国からの書類を整理するのが仕事です。ここでは「生産性ある労働」はしていません。
近代資本主義国家においては、公務員や議員は最小にしてボランティアでもいいとするのが基本です。
これを「小さな政府」と言います。
企業も警察などの公的機関も、なるべく民間に任せて「国は最小限の機能さえしていればいい。そちらの方が国が発展する。」という立場です。
リバータリアニズムや、コンサバティブが同じ意見です。
対して、会社員も公務員のようにしよう、それをどんどん広げていこうとするのを
「大きな政府」と言います。
企業も警察などの公的機関は、すべて国営にして、「国が全てキチンと管理して税金を集めて再分配しなくれはならない。」という立場です。
これはリベラルや、独裁体制が同じ意見です。
そもそも中世の頃から、僧侶や貴族など他人のカネで生きて支配する公務員集団の「大きな政府」が必然的に腐敗し、
その反対としてできたのが近代資本主義国家なので、「大きな政府」で良いわけがありません。
実際に「大きな政府」を目指したソ連や中国などの旧社会主義国は、どんどん崩壊していきました。
公務員で解雇できなくなることで、雇用の流動性がなくなり、失業者が大量にあふれ、会社は維持のために国に補助金を求め、増税増税と繰り返すので国が破綻してしまうのです。
人がお金を儲けて経済発展する近代資本主義国家ならば、なおさらに「小さな政府」でなければ、発展するわけがないのです。
そのためには、徹底的に減税して、公務員を減らしていく必要があります。
それがリバータリアニズムであり、本物の保守思想です。
7、「市場の規制(統制・介入)」か、「市場の自由」かという話
少し前述しましたが、近代資本主義国家において、お金を稼ぐ労働とは、神様への奉仕活動なのです。
そこから生まれる自然のままの自由市場の中に、人間(政府)が強制的にメスを入れて、統制・介入することは悪い結果をもたらします。
アメリカなどプロテスタントの強い国ではそういう大前提があります。
逆に、ヨーロッパのようなカトリックの強い国では、お金を稼ぐために働くことは「奴隷の懲罰」と言われています。
「大きな政府」である国が、きっかり国民から増税して、キリスト教カトリックの性善説なる公務員が、再配分すべきだという考えです。
しかしその大きな政府の国が、旧社会主義国や、欧州金融危機に代表されるように、システムが崩れたことは前述しました。
「小さな政府」の方も、リーマンショックや世界同時恐慌に代表されるようにシステムが崩れていきました。
「小さな政府」でもリスクはあることは確かですが、「大きな政府」はもっと害悪で短命です。
今まで
「中世」か、「近代」かという話
「古典」か、「現代」かという話
「神様」につくか、「人間」につくかという話
「個人の自由」と「経済の自由」がなぜ対立するのか、という話
「増税」か、「減税」(あるいは無税)かという話
「公務員」か、「民間会社員(サラリーマン)」かという話
でも書いてきたように、国が、国民を管理しようとするとロクな結果になりません。
規制を作り、そのための監視機関を作り、そのために増税して、またその利権保持のために規制を作り・・を繰り返して、国を破綻に追いやるだけなのです。
世界は今、アメリカを中心にグローバリズムという錦の御旗を掲げて、あらゆる国の国民から財産を強制的に刈り取って、税金を徴収しようとしています。
これを世界規模での「ネオ・コーポラティズム」(優れた独裁体制)と言います。
これに対するためには、
より多くの個人が個人個人で、
「もう世界(国)は、私のことを放っておいてくれ。自由に経済活動させてくれ。レッセフェール!(放っておいてくれ!)」
と、古典的な自由主義(リバータリアニズム)に目覚めるしかないのです。